慈愛が私が感じていた愛だと気づいたら、周りには愛があふれていた。

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先日「愛がわからない」ということから、
愛についてのブログを書いたのですね。

私が感じていた「愛」と英語で言われている
「LOVE」のイメージが違っていたため、
「愛がわからない」ということになっていた
のですよ。

私が感じていた「愛」とは「慈愛」だったのですね。

この「慈愛」という言葉に出逢ったのは、
臨床瞑想法を学びにいった飛騨千光寺だったのです。

住職であり講師の大下大圓さんが、著書にサインをするときに
書いてくださったのが「慈愛」という言葉。

何度か臨床瞑想法を学びに飛騨千光寺まで
出かけて言って、何度か「慈愛」という言葉を
いただいていたのに、それまでは気づいて
いなかったのですね。

先日また、飛騨千光寺へ臨床瞑想法を学びに
出かけていって、そこではじめて「慈愛」に
気づいたのですよ。

気づいていると周りは「慈愛にあふれていた」
のですね。

例えば、飛騨千光寺で瞑想をするのは畳の部屋
なのですが、足が痛かったりする人のために、
座りやすい椅子が置いてあるのです。

椅子は無くてもいいのに、置いてある。

お寺が特別に慈愛に満ちているわけではないのです。

例えば、私は公共交通機関がほとんどない地域に
住んでいるので自動車が無ければ生活が成り立ちません。

先人が、自動車というものを開発してくれたからこそ、
私は便利に車に乗って移動ができるのです。

江戸時代まで遡れば、自動車がない時代は、
基本的に自分の足で歩いて移動していたのですからね。

例えば、今はお店に行けば、大抵のものは
お金で買うことができますが、戦争中や
戦後は、物がない時代でした。

その時代、非農家だった母の家族は、
食べるのにも苦労したと聞いています。

今の私は、お腹いっぱい食べられるので、
それだけで「しあわせ」ですね。

今の時代、まわりには「愛」があふれているけれど、
気づいていないだけなのかもしれませんね。

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