陰陽、極まれば転ず。植物があるがままだったら、人間は?私は?

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昨日のブログで植物ってあるがままなんじゃないの?
って書いたのですね。

じゃぁ、人間ってどうなんだろうな?私はどうなんだろう?

足を持ち、動く手段を持っている私たち人間。
進化の過程で、他の動植物が持たないものを
たくさん手に入れてきた私たち人間。

進化の過程では必要だった、それらが今の私たち人間には
重荷になっていないだろうか?

身体の進化もさるものながら、脳の進化はある意味、
人間の苦悩を生み出したのではないかと私は思うのですよ。

パニック発作などは、人間にしか無いのではないかと?

進化したが故に、たくさんの情報を処理することが
必要になり、できるようになり、本来、生存のために必要な何か
機能できなくなっているのではないだろうかと思うのですよ。

ここから、私個人について書きますね。
数年前の私は、自分が何を考えているのかわからなかった・・・。

どこへ行こうとしているのか?
何のために生きているのか?

その頃の私は、言動不一致なことが多かったように
思うのですよ。

心の奥の深いところで、なんとなく違和感を感じていて

「そっちじゃないんじゃないの?」

って感じているのに、進んでいってはいけない方へ行って、
結果、自分で自分を傷つけている私。

自分を裏切ったことで傷を受け、そのは癒えることなく、
外部からの刺激でぐじゅぐじゅと化膿し、
身体の奥にまで浸潤していく。

そうなると、どうなるのかって?
自分に非が無いことまで、自分が悪いのではないかと
思えてくるのですね。

世の中のすべてが、自分以外のすべてが私のせいで
起きているのではないかって。
もう、これはどうにもならない、どうにもできない・・・。

例えるなら、底なし沼にはまって、あがいている状態です。

ところが、底なし沼だと思い込んでいただけで、
落ち着いて、足をつけてみれば、底はそこにあった
ダジャレみたいですが・・・。

自分だけではどうにもならない・・・。
でも、自分以外のところを意識してみたら?
底なし沼には、底があったのです。

自分だけで生きているのではなく、まわりの全て
作用しあって、生きていく私がいるのですね。

植物は、生きられると思った場所に、必要なタイミングで
芽を出し、根を張る。
植物は、まちがっても自分だけで実をつけられるとは
思っていないでしょう。
大地があり、おひさまがあり、雨が降り・・・。
季節のうつろい、循環があって、その中で生きる術を
身につけている。

あるがままとは、そういうことなんじゃないだろうか?

比べて人間は、はというと、苦行が好きなんですかね?
お釈迦様苦行をされたみたいですしね。
苦行をすれば、何か良いことが起きるに違いないと
思っているんですかね?

お釈迦様は、苦行では悟れないと悟ったんじゃなかったかな?

底なし沼だと勝手に思い込んで、あたふたともがき苦しみ、
もうダメだと、やっぱり勝手に思い込む

もうダメだ!

と思った瞬間、底なし沼の底を見つけるんですね。
面白いというか、笑えるというか、今までの私は
そんな状態でした。

「極まれば転ず(る)という」言葉があるのですよ。
陰が極まれば、必ず陽に転ずる

太陽の運行が春夏秋冬を現しているとすれば、
冬至で陰が極まり一陽来復(この言葉も易にあります)で、
ここから春の兆しを受けはじめて、陰から陽のエネルギー
転じはじめて、春分で陰と陽は同じ強さのエネルギーになり、
それを過ぎると、陽のエネルギーが強くなり、夏至で陽のエネルギー
まって、また陰に転じていく。

季節はうつろうけれども、繰り返す。

その繰り返しの中で、気づき学び進化していく。